大和町與止日女神社とほぼ同時期に創建されたと思われる佐賀市の與賀神社。
こちらの御祭神は與止日女神で、=豊玉姫命です。この神社には乙宮神(宗像三女神)が配祀されており、與止日女が海神と縁の深い神様であったことがうかがえます。
末廬国河上大明神(伊万里市淀姫神社)も元々、乙宮神を配祀してありました。(900年ほど前に現在の牛津郡に移されたようですが。)與止日女さんと、乙宮さんは、縁があるようです。
古くは「海の神」と認識されていた豊玉姫はいつのころから「川の神」になったのか。祭神の認識の変化とともに見ていきます。
京都市伏見区淀の「
與杼神社」の由緒を見てみると、この神社は肥前一ノ宮與止日女神社からの勧請ですが、「応和年間(
961年~963年)に肥前国佐賀郡河上村に鎮座の與止日女神社より、淀大明神として勧請したのに始まる(神社自体はそれ以前に鎮座しており、主祭神がいたと思われる)」とあり、祭神は
豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)です。
平安後期の頃の肥前一宮與止日女神社の祭神は豊玉姫と認識されていたということになります。
そして、河上神社文書の建久4年(1193)10月3日付在庁官人署名在判の書状に「当宮は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」と記されてあり、このころから「神功皇后の三韓征伐」との関連が見られ始めます。ただし、神功皇后の三韓征伐の際に御利益があったという意味と思われ、「神功皇后の妹」の存在はまだ出てきていません。
また、和歌山県辺市上秋津にある川上神社では、
1547年頃に肥前国佐賀郡より勧請された神が祀られているが、祭神は瀬織津姫(セオリツヒメ)。
肥前国佐賀郡(與止日女神社と思われる)から勧請された神は瀬織津姫となっており、豊玉姫の存在がなくなってしまっています。
「
川上神社と肥前国一之宮──瀬織津姫神の勧請」
瀬織津姫といえば川の流れの神。與止日女神社が佐嘉川の川上にあったためか、ついに、
豊玉姫(與止日女)が川の神であると認識されるようなったようです。
さらに、大和町川上の実相院尊純僧正が佐嘉藩主鍋島勝茂に差出した「河上由緒差出書」(
1609年)によれば
「一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。
二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。[後略]」
とあり、この時ようやく、「
神功皇后の妹」が登場します。
この間にいったい何があったのか?
わかりやすく、與止日女の認識を順番に並べると・・・
740年 世田姫 (ヨタヒメ) 『肥前国風土記』
901年 豫等比咩神 (ヨトヒメ) 『三代実録』
927年 與止日女 (ヨトヒメ) 『延喜式神名帳』
961年 豊玉姫 (トヨタマヒメ) 「與杼神社由緒」
1193年 「当宮(與止日女神社)は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」 『河上神社文書』
1503年 「豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の叔母、神功皇后の妹也」 『神名帳頭註』1547年 瀬織津姫 (川の神) 「川上神社由緒」
1609年 與止日女大明神は神功皇后の御妹 『河上由緒差出諸』
明治期 淀姫命 (ヨドヒメ) 『特撰神名牒』(延喜式神名帳の注釈書)
與止比女神(ヨドヒメ) 『明治神社誌料』
「神功皇后の妹説」が出てきたのは、1503年の
『神名帳頭注』以降ということになります。
『神名帳頭注』は、1503年
吉田兼俱により著された「延喜式神名帳」についての注釈書。「延喜式神名帳」というのは、927年に完成した『延喜式』巻九・十のことで、律令体制下、神祇官また諸国国司のまつるべき3132座の神社名を記した巻のことをいいます。『神名帳頭注』は頭註という名の示すように、はじめその上欄に吉田兼俱が注記していたものを,後人がその注記のみを現在みられるように1巻にまとめたもの。
著者の吉田兼俱は吉田神道(唯一宗源神道,卜部神道)の大成者。吉田兼倶こそが、與止日女命(豊玉姫)を、神功皇后の妹「淀姫」と解釈してしまった張本人です。
それまでは與止姫命がぼんやり豊玉姫と認識されていたものが、有力な神道家・吉田兼倶の解釈によって「與止日女命=神功皇后の妹」となりました。
風土記に曰はく、人皇卅代欽明天皇の廾五年、甲申の年、冬十一月朔日、甲子の日、肥前の国佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一[また]の名は豊姫、一の名は淀姫なり。
(『神名帳頭註』吉田兼倶)
トヨタマヒメがヨタヒメ(世田姫)と肥前国風土記に表記され、世田姫から、ヨタヒメ、ヨダヒメ、ヨドヒメと、変化し、『延喜式神名帳』(927年)にて「與止日女」の文字が登場。
信仰の対象も「海」から「川」へと変化し、海の神「豊玉姫」は忘れ去られ、川の神「ヨドヒメ」へと置き換わっていく。この頃はまさに、国司による一宮参拝が盛んにおこなわれていたころで、『延喜式神名帳』の存在もあったため、肥前国の神=ヨドヒメの認識が肥前国内はもとより、全国に知られることとなったのでしょう。
吉田兼倶の『神明帳頭注』によって浮上した「與止日女命=神功皇后の妹」説であるが、その説の発端となったと思われる神社が、松浦市
淀姫神社です。
松浦市淀姫神社の祭神は、景行天皇・淀姫命(=神功皇后の妹)・豊玉姫命であり、唯一、淀姫と豊玉姫を別々に祀っている神社であり、吉田兼倶が全国の神社をどこまで把握していたかはわかりませんが、「淀姫(神功皇后の妹)=豊玉姫」習合思想の発端となった神社と思われます。