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肥前国ミステリー「與止日女命」

與止日女命をめぐる古代浪漫
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淀姫研究① 淀姫さんの正体に迫る

肥前国一ノ宮「與止日女神社」にを中心に、佐賀県や長崎県に祀られる「與止日女命」。
「淀姫神社」の名で、佐賀県に広く分布しています。しかしこの神様、謎が多い!

地元では「淀姫さん」と親しまれ、佐賀県では比較的名のある神様なんですが、他県ではあまり知られていません。
他県で淀姫さんといえば、大坂城の「淀君」さんだと解釈されてしまいます。
「淀姫さん」は記紀神話にも登場しない神様だそうで、ネットで調べてみても、詳しいことは分かっていないようです。
祀られている地域は佐賀県を中心とした北部九州ということで、限られた地域にのみ信仰されている神様。

「佐賀県を中心とした」といっても「淀姫神社」は長崎県北部にも多いです。「佐賀県を中心とした」という発想は、佐賀県の與止日女神社が肥前国の一宮だったからでしょう…。


淀姫さんの正体は「豊玉姫命である」とか「神功皇后の妹である」という二つの説が一般的。

ですが、與止日女命について結構詳しく調べている人もいて、ほかにも「卑弥呼である」とか「卑弥呼の妹・壱與である」とかいう説などなどあります。

大変面白い。

卑弥呼・・・だったら本当に夢がある。佐賀方面限定の神様ですからね。可能性大。

しかし、従来の定説通り「豊玉姫」と「神功皇后の妹」説だけで、與止日女命の起源を辿ってみました。

卑弥呼ではないが、どちらにしても古代ロマン。

これにて、淀姫信仰のいくつかの矛盾点も解消されたかもしれない、そのヒントは「魏志『倭人伝』」に・・・。


つづく。





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淀姫研究② 與止日女命を祀る主な神社

與止日女命を祀る主要な神社に、佐賀市大和町「與止日女神社」、同与賀町の「与賀神社」、伊万里市大川町の「淀姫神社」、長崎県松浦市志佐町の「淀姫神社」、九州以外では京都市伏見区淀の「與杼(よど)神社」などがあります。

それぞれの祭神解釈ですが・・・

①肥前一宮・與止日女神社
【鎮座】 佐賀市大和町川上
【祭神】 與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)
【創建】 欽明天皇二十五年(564年)創祀

②与賀神社(與賀神社)
【鎮座】 佐賀市与賀町
【祭神】 与止日女神(=豊玉姫命
【配神】 八幡神・彦火々出見命、住吉神・綿津見命、乙宮神・宗像三女神 ほか
【創建】 欽明天皇二十五年(564年)に勅願造立

③伊万里市・淀姫神社
【鎮座】 佐賀県伊万里市大川町大川野
【祭神】 與止日女命(=豊玉姫命)【合殿】建御名方命・菅原道真公
【創建】 欽明天皇二十四年(563年)

④松浦市・淀姫神社
【鎮座】 長崎県松浦市志佐町浦免
【祭神】 12代景行天皇・淀姫命(=神功皇后の妹)・豊玉姫命
【創建】 欽明天皇癸未二十四年(563年)

⑤與杼神社
【鎮座】 京都市伏見区淀
【祭神】 豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)

以上、各神社の祭神の説明をみると、與止日女命には、「豊玉姫命とする説」、「神功皇后の妹とする説」の二つがあります。

與止日女信仰の原点かと思いきや、①肥前一宮與止日女神社は「神功皇后の御妹、また豊玉姫命」と曖昧な立場でありまして、逆に謎の発端となっています。與止日女神社の祭神に関する記述で一番最初にその名が登場したのは、『肥前国風土記』です。石神「世田姫」であると明記されており、神功皇后の妹説は全く登場していないため、この説は後世に作られたものでしょう。本来は「石神」。自然崇拝です。この神社の近くには、石神と思われる巨石が点在する「巨石パーク」なるものがあります。

⑤の與杼神社ですが、肥前一宮からの勧請であるにもかかわらず、祭神は與止日女の名称ではなく、「豊玉姫命」です。これ重要です。
松浦市淀姫神社のみ、神功皇后の妹「淀姫命」と、豊玉姫命を同一視せずに、それぞれ祀っていることから、この二柱の神は別々の神だと解釈されているのかもしれません。
②与賀神社と、③伊万里市淀姫神社については、別名「豊玉姫命」となっており、神功皇后の妹説には触れられていません。

各神社に共通するのは豊玉姫命で、この神様は與止日女信仰において重要な神様になります。

豊玉姫命は、『古事記』上巻、「山幸彦と海幸彦」神話に登場する女神で、海神・綿津見神の娘にあたります。
「山幸彦と海幸彦」の神話を要約すると・・・・・

海幸彦は漁師として魚をとり、山幸彦は猟師として獣をとって生活していた。
山幸彦は兄の海幸彦にそれぞれの道具を交換してみることを提案し、少しの間だけ交換することにした。

山幸彦は兄の釣針で魚を釣ろうとしたが1匹も釣れず、しかもその釣針を海の中になくしてしまった。兄の海幸彦も獲物を得ることができず、自分の道具を返してもらおうとしたが、山幸彦が釣針をなくしてしまったことを告げると、山幸彦を責め取り立てた。

山幸彦が海辺で泣き悲しんでいると、そこに塩椎神(シオツチノカミ 潮流の神)がやって来た。山幸彦が事情を話すと、塩椎神は小船を作って山幸彦を乗せ、綿津見神(海神・ワタツミ)の宮殿へ行くように告げた。
教えられた通り綿津見神の宮殿へ行くと、(中略)海神の娘・豊玉姫は山幸彦を見て一目惚れした。父である海神も山幸彦が天孫邇々芸命(ニニギノミコト)の子であるとみとめ、すぐに娘の豊玉姫命と結婚させた。こうして、海神の元で三年間暮した。 三年間たって、山幸彦はここに来た理由を思い出し、深い溜息をついた。海神が溜息の理由を問うたので、山幸彦はここに来た事情を話した。

海神が魚たちを呼び集めると、釣針が赤鯛の喉に引っかかっていることがわかった。海神は釣針と潮満珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を山幸彦に差し出し、「兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。兄が攻めて来たら潮満珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら潮乾珠で命を助けなさい」と言った。そして和邇(鮫)に乗せて送って差し上げた。

山幸彦は兄に釣針を返し、海神に言われた通りに田を作った。海神が水を掌っているので、海幸彦の田には水が行き渡らず、海幸彦は貧しくなっていった。さらに海幸彦が荒々しい心を起こして攻めて来た。すると山幸彦は潮満珠を出して溺れさせ、海幸彦が苦しんで許うと、潮乾珠を出して救った。これを繰り返して悩み苦しませると海幸彦は頭を下げて、山幸彦に昼夜お守りすると言った。

豊玉姫は懐妊していたが、天神の子を海の中で生むわけにはいかないとして、陸に上がってきた。産屋に入った豊玉姫は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と山幸彦に言う。 しかし、山幸彦はその言葉を不思議に思い、産屋の中を覗いてしまう。そこで豊玉姫が姿を変えた八尋和邇(やひろわに)が、腹をつけて蛇のごとくうねっているのを見て恐れて逃げ出した。 豊玉姫は山幸彦に覗かれたことを恥ずかしく思って、産まれた子を置いて海に帰ってしまう。
しかしその後、その覗いた山幸彦の心情を恨んだが、御子を養育するという理由で妹の玉依姫を遣わし、託した歌を差し上げ、互いに歌を詠み交わした。



つづく。

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淀姫研究③ 豊玉姫信仰の伝来

「山幸彦と海幸彦」の神話に登場した「綿津見の宮殿」、この舞台となったといわれる場所が二ヶ所あります。
一つは宮崎県「青島神社」、もう一つは長崎県対馬市「和多都美神社」です。。

記紀神話を事実に基づいて作られたものと解釈すれば、山幸彦は山岳狩猟民族、海幸彦は沿岸漁業民族、、海神の娘・豊玉姫は海の先に住む異国のもの、ということになります。
これは典型的な異種婚姻譚で、これが当てはまるのは宮崎県ではなくて、倭の国からみた異国「対馬国」和多津美神社ということになります。青島神社も海を隔てた島にあるんですが、山幸彦が3年間も海神宮に留まったことを踏まえると、本土との距離が近すぎます。「3年間」というのは、そうそう帰れる距離ではなかったのでしょう。これらのことから、和多都美神社由緒にある伝承が記紀神話の元になった話であり、後世に記紀神話に基づいて実在の場所を当てはめていった結果合致したのが青島神社であったと考えることができます。

和多都美神社
【鎮座】 長崎県対馬市豊玉町
【祭神】 彦火々出見尊 豊玉姫命

和多都美神社のある対馬ですが、この対馬には多くの神々が鎮座しており、特に重要視されてきたのが、海神の娘・豊玉姫命と、神功皇后です。豊玉姫命は、航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があり、島民に親しまれました。一方、神功皇后は懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行ったとされる勇ましい女神で、子の応神天皇とともに「八幡神」として全国の八幡神社に祭られています。神功皇后は九州北部に縁の深い女神であり、対馬にもたくさんの伝承地があるとのことです。豊玉姫命は外国への航海(交流)の守護神、神功皇后は外国から国土を守る女神であり、これはそのまま対馬の二面性(交流と国防の最前線)を表している、とのこと。(「対馬観光物産協会」)

豊玉姫命を祀る信仰は和多津美神社を発祥とし、各地へ広がっていきます。対馬国・壱岐国を経て北部九州へと至ることになると思うんですが、これは『魏志倭人伝』の魏の使者が通るルートと同じ。北部九州には『魏志倭人伝』に登場する「末廬国」があります。『魏志倭人伝』は3世紀末に晋の陳寿によって書かれた書物であり、末盧国について、
大陸から『海を南の方に千里余り程渡って行くと、一大国(一支国)に着く。・・・また、千余里程海を渡ると末盧國に着く。四千戸余りあり、山麓や沿岸沿いに居住している。前の人が見えないほどに草木が生い茂っている。水の深い浅いに関係無く住民はもぐって魚や鰒(あわび)を捕る。陸に上がって東南の方に五百里ほど行くと伊都国に着く。』
と書かれています。

この、「末廬国」の場所については諸説ありますが、記述内容・現在に残る地名などから考慮するに、松浦半島あたりが有力です。この時代の豪族の墳墓である古墳の分布から考えて、現在の唐津市の鏡地区と浜崎玉島町とを中心として伊万里・平戸方面にも及んだ範域、というのが通説のようです。
末廬国の考古学
魏志倭人伝の風景
さらに、この末廬国を唐津市とすると、丁度いい具合に豊玉姫(与止日女)を祀る神社があらわれます。
佐賀県伊万里市の「淀姫神社」です。

淀姫神社は古くは「河上大明神」とよばれた神社ですが、末廬国を流れる松浦川の上流(川上)に祀られていたからその名でよばれていたのでしょう。「末羅県鎮守の霊場」の異称を持っていたそうで、末羅県(まつらのあがた)というのは、末廬国のことを古事記や風土記で表した名称ですので、河上大明神(淀姫神社)が荒ぶる松浦川を川上から鎮守するという末廬国における重要な存在であったことがうかがえます。

末廬国は貝やアワビをとったりする海人(あま)の族ですが、かつ菜畑遺跡などの農耕文化を持っており、神話でいうと山幸彦(猟師)です。山幸彦は、猟師でありながら、海神・豊玉彦から潮満珠・潮乾珠を譲り受け、水をつかさどることにより、田を豊作にすることができた・・・。
末廬国の人々も、松浦川の氾濫や干ばつに苦しむことなく農耕を行うために、当時交流があった対馬国の豊玉姫(水をつかさどる神)を崇め祀ったとしても不思議ではありません。
海の神が佐賀の内陸に祀られているのも、こういった理由からかと思います。

第一部(完)

第二部へつづく。

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淀姫研究④ 豊玉姫信仰の東遷

対馬国の豊玉姫信仰(水を司る神信仰)が倭・末廬国に上陸したところで、まだまだ「與止日女」の一部が見えたにすぎません。

末廬国河上大明神に祀られていたのは海の神・豊玉姫であり、佐賀の内陸に至るにはいくつかの過程が必要ということです。

そこで問題となるのが「邪馬台国」。北九州説・近畿説ありますが、ここでは吉野ヶ里を邪馬台国としておきます。仮に吉野ヶ里が邪馬台国ではないにしても、吉野ヶ里を北部九州における重要なクニとしておきます。
そうすると、大和町川上に祀られている與止日女は、末廬国と内陸(吉野ヶ里)を往来する者によって伝えられた可能性が濃厚になってきます。
大和町は末廬国から厳木をぬけて吉野ヶ里へ至る経路の途中にあります。



大和町與止日女神社の場所は、嘉瀬川(佐嘉川)の上流に当たり、松浦川の上流に祀られている末廬国河上大明神と似た地形です。このことから、佐賀平野の重要な河川である佐嘉川の氾濫を鎮め、水を支配するために、豊玉姫信仰が伝播したもの思われます。

大和朝廷による日本統一が始まったころ書かれた『肥前国風土記・佐嘉郡』に、
「郡の西に川があって、佐嘉川という。この川上に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を生かし、半分を殺す。県主の祖、大荒田が土蜘蛛の大山田女、狭山田女に神意を問うたところ、下田村の土で人形・馬形をつくり、神を祭れば必ずやわらぐといい、その通りにするとやわらいだ。川上に石神があり、名を世田姫(よたひめ)という。」と書かれています。

風土記も「記紀」同様に、実在した出来事を比ゆ的に表現したものと解釈すると、土蜘蛛は天皇に恭順しなかった古代の土豪のことを指すといわれており、大山田女、狭山田女は、大和朝廷の権力が佐嘉に及ぶ以前にこの土地を支配していた者ということになります。そうすると、この記述は「県主の祖、大荒田(朝廷側)が、土豪の信仰する神を祀ることによって、この地方が朝廷の支配下に置かれた」ことを意味しているのではないでしょうか。

川上の石神とは大和町川上の與止日女命のことを指すわけですが、「ヨドヒメノミコト」の名はなく、石神の世田姫(よたひめとかかれています。
末廬国(魏志倭人伝で3世紀末)は風土記の成立以前に繁栄していたクニであり、民衆にはまだ文字の文化が発達していなかったことを考えると、世田姫(よたひめ)は当時の人々の音写と思われます。つまり、「世田姫」は当て字で、ヨタヒメという発音が先に存在していたということです。
世田姫=ヨタヒメとは、ヨタヒメの「ト」と「マ」が欠落したものであり、もともとはトヨタマヒメと言われていた神様が、人々に長い間呼ばれる間にヨタヒメに変化してしまったのではないでしょうか。

また、『肥前国風土記』の世田姫の項の続きに
「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神 [鰐魚を謂ふ] 年常に、逆流(さかまくみず)を潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従へり。或は、人、其の魚を畏むものは殃(わざわい)なく、或は、人、捕り食へば死ぬることあり。凡て、此の魚等、二三日を経て、還りて海に入る。」とある。
海の神が毎年、石神「世田姫」の元へ海の魚を従えてやってくるという記述。これには「海の神=鰐」と明記してあり、豊玉姫の本来の姿はワニであることから、当時はまだ、與止日女が豊玉姫と認識されていたのかもしれません。
しかし、石神「世田姫」(豊玉姫)のもとに豊玉姫自身がやってくるということになってしまい、矛盾を感じます。また、昔からこの土地にはナマズは祭神の使いであるから食べないという風習があるようですが、ナマズは川の魚であって、海の魚を従えてやってきたのだから無関係のような気がします。ナマズは川の魚の中でも大きいので、海の魚も従えると思われていたのでしょうか。海の神ワニがなぜナマズと解釈されたのか?おそらく「ナマズ」は後世のこじつけかと。

ここでは『肥前国風土記』の記述は、佐嘉川の流れに逆らって有明海からやってくる鰐の話ではなく、海人族の神である豊玉姫の伝来を現した故事であり、「海の神豊玉姫を祀る元となった末廬国の使者が、川上に祀られる世田姫(豊玉姫)のもとに、たくさんの部下を引き連れて険しい山々を越えて(逆流を潜りくぐりて)毎年やってくる。その人々を手厚くもてなせば災いは起こらない、人々は2~3日して海(末廬国)へ帰っていく」と解釈しておきます。

かくして豊玉姫信仰は、対馬国に始まり、壱岐、末廬国、そして佐嘉へと広がっていきました・・・!


つづく。

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淀姫研究⑤ 「豊玉姫」の消滅と「神功皇后の妹」の登場

大和町與止日女神社とほぼ同時期に創建されたと思われる佐賀市の與賀神社。
こちらの御祭神は與止日女神で、=豊玉姫命です。この神社には乙宮神(宗像三女神)が配祀されており、與止日女が海神と縁の深い神様であったことがうかがえます。
末廬国河上大明神(伊万里市淀姫神社)も元々、乙宮神を配祀してありました。(900年ほど前に現在の牛津郡に移されたようですが。)與止日女さんと、乙宮さんは、縁があるようです。

古くは「海の神」と認識されていた豊玉姫はいつのころから「川の神」になったのか。
祭神の認識の変化とともに見ていきます。

京都市伏見区淀の「與杼神社」の由緒を見てみると、この神社は肥前一ノ宮與止日女神社からの勧請ですが、「応和年間(961年~963年)に肥前国佐賀郡河上村に鎮座の與止日女神社より、淀大明神として勧請したのに始まる(神社自体はそれ以前に鎮座しており、主祭神がいたと思われる)」とあり、祭神は豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)です。
平安後期の頃の肥前一宮與止日女神社の祭神は豊玉姫と認識されていたということになります。

そして、河上神社文書の建久4年(1193)10月3日付在庁官人署名在判の書状に「当宮は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」と記されてあり、このころから「神功皇后の三韓征伐」との関連が見られ始めます。ただし、神功皇后の三韓征伐の際に御利益があったという意味と思われ、「神功皇后の妹」の存在はまだ出てきていません。

また、和歌山県辺市上秋津にある川上神社では、1547年頃に肥前国佐賀郡より勧請された神が祀られているが、祭神は瀬織津姫(セオリツヒメ)。
肥前国佐賀郡(與止日女神社と思われる)から勧請された神は瀬織津姫となっており、豊玉姫の存在がなくなってしまっています。
川上神社と肥前国一之宮──瀬織津姫神の勧請

瀬織津姫といえば川の流れの神。與止日女神社が佐嘉川の川上にあったためか、ついに、豊玉姫(與止日女)が川の神であると認識されるようなったようです。

さらに、大和町川上の実相院尊純僧正が佐嘉藩主鍋島勝茂に差出した「河上由緒差出書」(1609年)によれば
「一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。
二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。[後略]」
とあり、この時ようやく、「神功皇后の妹」が登場します。

この間にいったい何があったのか?

わかりやすく、與止日女の認識を順番に並べると・・・

740年   世田姫 (ヨタヒメ) 『肥前国風土記』
901年   豫等比咩神 (ヨトヒメ) 『三代実録』
927年   與止日女 (ヨトヒメ)  『延喜式神名帳』
961年   豊玉姫 (トヨタマヒメ)  「與杼神社由緒」
1193年  「当宮(與止日女神社)は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」
        『河上神社文書』
1503年  「豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の叔母、神功皇后の妹也
        『神名帳頭註』
1547年   瀬織津姫 (川の神) 「川上神社由緒」
1609年   與止日女大明神は神功皇后の御妹  『河上由緒差出諸』
明治期    淀姫命 (ヨドヒメ)  『特撰神名牒』(延喜式神名帳の注釈書)
       與止比女神(ヨドヒメ) 『明治神社誌料』

「神功皇后の妹説」が出てきたのは、1503年の『神名帳頭注』以降ということになります。
『神名帳頭注』は、1503年吉田兼俱により著された「延喜式神名帳」についての注釈書。「延喜式神名帳」というのは、927年に完成した『延喜式』巻九・十のことで、律令体制下、神祇官また諸国国司のまつるべき3132座の神社名を記した巻のことをいいます。『神名帳頭注』は頭註という名の示すように、はじめその上欄に吉田兼俱が注記していたものを,後人がその注記のみを現在みられるように1巻にまとめたもの。

著者の吉田兼俱は吉田神道(唯一宗源神道,卜部神道)の大成者。吉田兼倶こそが、與止日女命(豊玉姫)を、神功皇后の妹「淀姫」と解釈してしまった張本人です。
それまでは與止姫命がぼんやり豊玉姫と認識されていたものが、有力な神道家・吉田兼倶の解釈によって「與止日女命=神功皇后の妹」となりました。

風土記に曰はく、人皇卅代欽明天皇の廾五年、甲申の年、冬十一月朔日、甲子の日、肥前の国佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一[また]の名は豊姫、一の名は淀姫なり。

(『神名帳頭註』吉田兼倶)

トヨタマヒメがヨタヒメ(世田姫)と肥前国風土記に表記され、世田姫から、ヨタヒメ、ヨダヒメ、ヨドヒメと、変化し、『延喜式神名帳』(927年)にて「與止日女」の文字が登場。
信仰の対象も「海」から「川」へと変化し、海の神「豊玉姫」は忘れ去られ、川の神「ヨドヒメ」へと置き換わっていく。この頃はまさに、国司による一宮参拝が盛んにおこなわれていたころで、『延喜式神名帳』の存在もあったため、肥前国の神=ヨドヒメの認識が肥前国内はもとより、全国に知られることとなったのでしょう。


吉田兼倶の『神明帳頭注』によって浮上した「與止日女命=神功皇后の妹」説であるが、その説の発端となったと思われる神社が、松浦市淀姫神社です。
松浦市淀姫神社の祭神は、景行天皇・淀姫命(=神功皇后の妹)・豊玉姫命であり、唯一、淀姫と豊玉姫を別々に祀っている神社であり、吉田兼倶が全国の神社をどこまで把握していたかはわかりませんが、「淀姫(神功皇后の妹)=豊玉姫」習合思想の発端となった神社と思われます。

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神野奏太
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地理学出身、歴史学・民俗学・郷土史研究中。

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